沖に見えるはパーパの舟よ

樫山の方を眺めながらオラショをした
 イエズス・キリスト様を愛し、その教えを信じたキリシタンたちがキリスト様の教えの伝導者であり、秘跡の授け手である神父たちを大切にしたことは言うまでもない。そしてキリスト様の代理者として教会を司牧なさるローマのお頭様(パーパ=教皇)を慕う心は250年の迫害と潜伏の間も変わることはなかった。

 樫山(三重)のバスチャン様の椿の森は外海、長崎地方の信者たちにとって大切な巡礼地になっていたが、浦上の信者たちは自由にここにお詣りするのがむずかしかったから、岩屋山に登って樫山の方を眺めながらオラショをした。岩屋山に3度お詣りすれば樫山に一度お詣りしたことになり、樫山に3度お詣りすればローマの聖教会に一度お詣りしたことになる、と考えていた。
 このような考えをキリシタンたちが持ちつづけたことは、ローマを忘れない心の現れであった。禁教と鎖国とによってローマとの関係を断ち切られた時、キリシタンたちの悲しさはどれほどであったろうか。
 キリシタンであることは、キリスト様の代理者であるローマのパーパとその使徒である司教、司祭たちの教えに従うことを条件とする。それができなくなったのになお、日本のキリシタンが滅びなかったのは、キリシタンたちが七代、250年にわたりローマのパーパを慕いつづけ、神父たちの渡来を待ちこがれる心があったからではなかろうか。具体的なつながりはなくしたが、心は密接にローマのパーパと結ばれていたからではなかろうか。
大浦天主堂
信徒発見の聖母マリア


      沖に見えるはパーパの船よ
            丸にやの字の帆が見える

 いつのころからか徳川時代の潜伏キリシタンたちはこんな歌をひそかに口ずさみつづけていた。「丸にやの字」はマリアである。
 サンタ・マリアのお導きによってパーパから遣わされた神父たちがきっとまた日本においでなさる、という希望を持ちつづけていたのである。
 そして全く、その通りになった。1865年3月17日、大浦天主堂のサンタ・マリア像に導かれて信者たちは神父を見つけ出したのであった。
 5月15日、大浦天主堂に来た神ノ島のペトロ政吉は、「ローマの国のお頭のお名前は?」とプチジャン神父に尋ね「イエズス様のご名代なるパーパ様はピオ9世と言われます」という答えを聞いて非常に喜んだという。
 出津のキリシタンたちがプチジャン神父に会った時「あなたはローマのお頭様から遣わされておいでなさったのか」と尋ね、「そうです」と聞いて初めてほんとうの神父だと信じたことはプチジャン神父の報告に見える。

 250年という長い禁教と迫害の時代に、1人の神父様もいないのに、何万人という信者たちが信仰を守りつづけたことは世界宗教史の驚異とされる。その驚くべき事実が存在したことは、述べて来たように洗礼の秘跡が行われて実質的にキリシタンが存在しつづけたこと、三位一体の神と、その第二位にして人類の救い主なるイエズス・キリスト、その御母なるサンタ・マリア、諸聖人たち、ローマのパーパと神父たちを大切にし、慕いつづけたこと、隣人(生きたる人と死したる人)に愛の心を寄せるというキリシタンの教えを実行したことにある。
 そのためには教理を知り、神と教会の掟を守ること、オラショをすることが必要であったが、帳方、水方、聞役、(生月、平戸では授け役-ご番役-み弟子)という指導系統をもつ秘密の組織があったことが、それが行われる力になったと思われる。

                  「長崎のキリシタン」 片岡弥吉著より